Masuk──東京都内・中目黒。
私のマンション、深夜0時27分。(……完璧に勝つには、まだ足りない)
ローテーブルに企画書を広げたまま考え込んでいた。
キッチンの棚にはDがいつも飲むハーブティー、洗面台には彼のスキンケアが私のボトルの隣に並んでいて、クローゼットの一角には彼のジャケットが自然に掛かっている。
この部屋には、当たり前のように彼の気配がある。
そのとき、玄関の鍵がカチャ、と鳴った。「……戻ったわよ」
黒のコートを肩にかけたDが、慣れた動作で靴を脱いで入ってきた。
いつもの余裕の笑みが──今夜はない。「遅かったわね。会食?」
「ええ。でもそれより……大変なものを拾った。」
Dは部屋に上がると、そのままソファに腰を落とし、
タブレットをテーブルに置いた。「いずみが連れてくる切り札が分かったわ。」
「切り札?」
「鬼塚 剛」
その瞬間、心臓が一拍だけ止まった気がした。
息が、喉の奥で細い糸みたいに途切れた。 知らないわけがない。マーケターなら、その名に反応しない方がおかしい。「……本気で来るの? あの鬼塚が」
自分の声が震えているのが、分かった。
10年間赤字だった大型テーマパークを18か月で黒字転換した怪物。 来場者を180万人から900万人に。 動線から感情まで全部読み切って作り変えた伝説のマーケター。Dは、ゆっくり頷いた。
「確定。もう動いているわ」
私は無意識に、自分の腕を抱いていた。
暖房が効いているのに、肌が少しだけ冷える。「鬼塚は顧客に憑くと言われてる」
Dの声が静かに落ちる。
「鬼塚が拾っているのは、その人自身も気づいていない欲望。
呼吸の揺れ、歩幅の乱れ、視線の逃げ先、ため息の理由── 無意識に滲んだ欲望の芯をまず見抜く。そして、その願いを数式に落とし、本人が望んだ以上の形で組み上げてしまう。」
ゾクリ、と背中が冷えた。
「知ってる……嫌というほど……」声が細くなる。
足の先まで、緊張の冷えが落ちていくのが分かった。(……あの鬼塚 剛が動く)
喉の奥にたまった小さな恐怖が、自分でも抑えられなかった。
ふっと息が揺れて──気づけば、口が勝手に動いていた。「……勝てるかな、私」
言った瞬間、Dの動きが止まった。
ソファに片肘をついていた姿勢のまま、ゆっくりと顔を上げる。いつもの余裕の笑みじゃない。
珍しく──本気の、深い真顔。「勝つしかないでしょう」
声が低い。
甘さも茶化しもない。 ただ、真っ直ぐ。「本気で勝ちにいくのよ。あなたも、私も。
……鬼塚が相手だからって、怯む理由にはならないわ」胸の奥がぎゅっと疼いた。
(Dが……ここまで本気を出すなんて)
その熱が、緊張の冷たさを内側から溶かしていく。
Dが少しだけ身を乗り出し、私の頬にかかる髪をそっと指で払った。
「──今、あなたがやることは一つ」
低くて、落ち着いていて、逆らえない声。
「……何?」
「寝なさい。寝不足で最高のプランは作れないわ」
そう言いながら、Dの腕が私の背に回る。 その瞬間、体の奥で何かがゆるむ。 背中から胸へ、温度がゆっくり染み込んでいくみたいに── じんわりと気持ちよかった。「……やめてよ、そんな抱き方。ほんと、力抜けるから……」
「それでいいのよ。今のあなた、張りつめすぎだから」
Dの手のひらが、背骨に沿ってゆっくり撫で上げる。
布越しなのに、そこだけ熱を帯びていく。 足の先まで、気が抜けるように軽くなる。呼吸が知らないうちに深くなって、
胸の奥のざわめきがすっと引いた。「……ちょっとだけ、いい?」
顔を近づけて囁かれ、返事をする前に唇が触れた。
深くない。 でも、触れたところからじわっと快感が広がる。 抱きしめられているせいで、逃げ道がない。(……こんなの、ずるい)
唇が離れたあとも、
Dの腕の中は心地よくて、息を整えることさえ忘れそうだった。「行くわよ、ベッド。こんな顔のまま徹夜する気?」
言い返す気力なんて残っていなかった。
そのまま手を引かれ、薄闇の寝室へ。柔らかなシーツに沈んだ瞬間、
張りつめていたものが一気にほどけて、 身体の奥がじん、と温かくなった。(あ……気持ちいい……)
肩に触れる手、髪をすくう指、唇がそっと触れたところから波のように広がる快感。
深く求められたわけじゃないのに、全身がふわふわして── その夜、私は曖昧な光の中で何度も溶けた。***
肩にDの匂いが残ったまま、私は仰向けのままゆっくり息を整えていた。
手足の先まで、まだじんじんしていた。
胸の奥が満たされて、意識が甘く揺れている。「……どうしたら勝てるかな」
隣から身体を起こしたDが、軽く触れるように私の頬をなぞった。
甘い指先なのに、声は驚くほど冷静だった。「同じやり方で勝とうとするのは、もう捨てなさい」
「え……?」「鬼塚は読む人間。空気も体温も、無意識の揺れまでも全部。
あなたが同じことをしたら、必ず負ける」背筋にすっと冷たい線が落ちる。
「じゃあ……どうすれば」
Dは私の髪を耳の後ろに払って、静かに微笑んだ。
「あなたは読む側じゃない。描く側でしょう?」
胸の奥が、一瞬だけ強く跳ねた。
「鬼塚が顧客を読むなら、あなたは未来の顧客を作ればいい。
人の動きを誘導するのはマーケターの仕事じゃない……あなたの仕事よ」Dの指が私の顎をそっと持ち上げる。
甘くて、冷たくて、底が読めない笑み。「朱音。あなたは鬼塚の模倣品じゃない。鬼塚の想定外になるために、私はあなたを育てたのよ」
その言葉に、身体がひやりと震えた。
快感の余韻と、戦いの予感が同時に混じる。 柔らかな声。 でも、本気の戦闘モードのDの目をしている。私はふと、彼の方を見る。
体はまだふわふわして、快感の余韻がじんわり残っているのに── 心はもう次の戦場に向いていた。「……ねぇ、D」
「なに?」
「あなた、なんで私にここまで……?」
問うつもりじゃなかった。
でも、満たされた身体は素直すぎて、心の奥の疑問がそのまま口に出てしまう。Dは一拍だけ黙り、私の顎を軽く持ち上げて、ゆっくり微笑んだ。
「あなたは……私の最高傑作だから」
その言葉が胸に落ちた瞬間、誇らしさといっしょに、かすかな寒気がひゅっと走った。
(……最高傑作)
嬉しい。誇らしい。
でもそのどれより先に―― 私じゃなくてもいいのかもしれないという冷たさが胸をかすめた。——それから、数週間後。 会議室の空気は、わずかに張りつめていた。「夏の導線がうまく伸びていない。……このままでは頓挫する気がします」 悠斗のひと言に、会議室の温度がわずかに下がる。 晴紀が顔を上げ、鬼塚はゆっくりうなずいた。(やっと……核心に触れたか) 季節導線の第一弾は成功した。 客足は三割増、SNSの温度も高かった。 ──だが、それは春の話だ。 一週間前に始めた夏の導線は、思うように動かない。 来客数は横ばい、SNSの拡散も鈍い。 数字の立ち上がりが、明らかに弱かった。「期待ほどの上がり方ではない」 悠斗は資料を閉じた。「導線の核が……まだ動いていない感じがします」 晴紀も小さく息を吸う。「俺も……そう思ってた」 鬼塚が口を開く。「三人とも感じているはずだ。誰の設計に乗っているかを」 沈黙。 目を逸らす者は誰もいない。 もう全員、答えを知っていたからだ。 鬼塚はゆっくり言葉を置いた。「──朝倉朱音だ」 晴紀の喉が、かすかに震えた。 悠斗も息を呑み、手元の資料を握り直す。 鬼塚は続ける。「季節導線の骨格も、物語としての挑戦も。 すべて最初の企画会議で、彼女が提示した視点だ」 悠斗が視線を落とす。「でも……言えませんでした。これ以上、神園家との摩擦が広がれば……」 鬼塚は静かに首を振った。「皆、分かっていた。ただ、触れないという選択をしていただけだ」 会議室の空気が、ひとつ重い音を立てて沈む。 鬼塚はロードマップを見つめながら、淡々と告げた。「夏・夏・秋・冬。あの四季の軸は、本人しか深められない。 どれだけ優秀な担当者がいても、翻訳者がいなければブランドは折れる」 晴紀がゆっくり顔を上げた。「つまり……」 鬼塚は短く言う。「──呼ぶべき人間は、ひとりだ」 悠斗も小さく頷いた。「……朝倉朱音」「だから外部から答えとして出せるのはここまでだ。最終判断は——経営トップの仕事だ」 二人の視線が、晴紀へ向いた。 鬼塚と悠斗の言葉が、晴紀の胸にじわじわ残響していた。 彼らは、真実だけを言った。 逃げ場のない、正しい言葉だった。 だがその先にあるもうひとつの現実を、晴紀もまた知っていた。(朱音を呼べば……炎上リスクが跳ね上がる)(なにより、神園家はきっと手を引く。 支援がな
朝なのに、もう一度眠りに落ちてしまって、 体だけが先に目を覚ましたみたいだった。 布団の重さと、すぐそばの体温だけが、はっきりしている。 意識はまだ水の底に沈んだまま、呼吸だけを整えていると、 背後から、そっと腕が回された。「……朱音、起きてる?」 耳元に落ちる声は低くて、 朝一番の空気を含んだ、やわらかい甘さがあった。「ん……まだ……」 自分でも驚くほど、素直な返事だった。「いいのよ。あなたの無防備な寝顔は可愛いわ」 首筋に、息がかかる。 その熱に反応して、無意識に肩がすくんだ。 逃げるより先に、 この距離が当たり前になっていることに気づいてしまう。「ねぇ、朱音」「……なに?」「閑職、そろそろ飽きたんじゃない?」「え……?」 寝起きの頭が、一瞬で覚める。 Dはゆっくり身体を起こし、かき上げた髪の隙間から光が落ちた。 横顔だけじゃない。 頬のラインも、まつ毛も、喉元の影までもが、朝の光に溶けるように整っている。 美しいじゃ足りない。 近づくほど輪郭が崩れず、むしろ完成してしまうタイプの美しさだった。 それを見ているだけで、 身体の内側が、静かに熱を持つ。「今、少しずつ働きかけてるわ。あなたの部署」「働きかけ……?」「ええ。あなたが前のように仕事に復帰できるように、内部を動かしてるの」 言葉は淡々としているのに、胸の奥が一気に熱くなる。「……ありがとう」 自然と指がDの腕に触れていた。 感謝と、救われたような気持ちが同時にこみ上げる。(やっと、戻れる……?) そう思った瞬間、胸の奥がほっと緩んだ。 けれどDは、そこで一度視線を伏せ—— すぐに、別の温度を帯びた声で言った。「そういえば、清晴堂の夏の導線。あまりうまくいってないみたいね」「……え?」 脳が一拍置いて動く。(なんで……Dがそんなことを?)「鬼塚から聞いたわ」 胸の奥が、変なふうにざわついた。(もう……忘れたつもりだったのに)(関係ないはずなのに) 気になってしまう自分が、いちばん腹立たしい。「あなたに関係ない話よね?」 Dはわざと軽い調子で言った。 でも、その目だけは私の微かな揺れを逃さずに見つめていた。(試されている) 心の奥に沈んでいた火種が、わずかに息を吹き返すのを自覚してしまう。(気になる……
照明を落とした部屋は、外の世界から切り離されたみたいに静かだった。 カーテンの向こうの街の気配は遠くて、ここには私とDの呼吸しかない。 Dは私をベッドに導いたけれど、すぐには横にならなかった。 シーツを整え、枕の位置を直し、それから私を見る。「……無理はしないで」 その言葉が、胸の奥にやさしく沈む。「無理してないわ」 強がりじゃない。 本当に、そうだった。 Dは小さく笑って、私の隣に腰を下ろす。 触れたのは、手首だけ。 脈を確かめるみたいに、指先がそっと添えられる。「そうね。ちゃんと、生きてる顔してる」「どういう意味?」「壊れてる人は、もっと静かよ」 そのまま、Dは私の手を引いた。 キスは、すぐじゃない。 額に。 こめかみに。 頬に。 じらすみたいに、でも乱さない。 そして、ようやく唇に触れた。 深くない、確かめるだけのキス。 私は目を閉じて、それを受け取る。 拒まない。 でも、急がない。 Dの手が背中に回り、服の上からなぞる。 押さえつけるでも、引き寄せるでもない。 ——ここにいていい。 そう言われているみたいな触れ方。「……今日のあなた、綺麗ね」 一瞬、息が止まる。「……あなたのおかげでしょ」 自分でも驚くほど、素直な声だった。 Dは一瞬だけ言葉を失って、それから、いつもより少しだけ近づいた。「そう言われるの、弱いのよ」 唇が重なる。 今度は、さっきより深い。 舌が触れて、息が混じって、思考が溶けていく。 Dの手が服の端にかかり、ためらいなく引き上げた。 肌に触れた瞬間、細い息が漏れる。「あ……」 恥ずかしさより、安心の方が勝っていた。(ああ……Dには、いつも甘く溶かされてしまう) Dの指は、ちゃんと私の反応を待つ。 早すぎない。 でも、逃がさない。「ね、朱音」 顎に指をかけられて、視線が合う。「これは、逃げ?」 私は迷わず首を振った。「違う。……私は、ここに来たかった」 Dはそれ以上、何も言わなかった。 ただ、ゆっくりと、深く、口づける。 触れ合うたびに、呼吸が乱れていく。 身体が熱を思い出して、考えることをやめていく。 Dの手が腰に落ちて、引き寄せられる。 密着した体温が、はっきりと「選んだ現実」を教えてくる。「声、我慢しなくていい」 低
「…………なん、ですって?」 いずみの声が一段落ちる。 店に出入りする人のざわめきよりも冷たい。 晴紀が淡々と続けた。「春の導線を動かしたのは、朱音の骨格だ。 鬼塚さんも認めていた」 いずみの視線が、ゆっくりと私に向く。 その目の奥で、何かが静かに裂ける音がした。「……許せないわ」 囁くような声なのに、背筋が凍るほど鋭い。「だって——」 いずみは一歩、私のほうへ踏み出した。 唇だけ笑って、目はまったく笑っていない。「清晴堂は私が救うのよ? あなたみたいな人に……横から奪われるなんて」 胸の奥がひゅっと縮む。 いずみは笑顔の皮だけを残して、感情を押し殺すように続けた。「なのに。 どうしてあなたなの? どうしてあなたの案なの?」 最後は、吐き出すように。「……許せない。許せるわけが、ないわ」 いずみの言葉が落ちた瞬間だった。 隣で、晴紀の表情がぐっと歪んだ。 怒りとも、悔しさともつかない、見たことのない陰の影。「いずみ、言い方が——」「事実を言っただけよ? ……ねぇ、朱音さん?」 あの焦げるような視線がこちらに向いた。 胸の奥で、何かがきしんだ。(……もう、ここにいてはいけない) その確信だけが、静かに落ちた。「ごめんなさい。 私は……これで」 晴紀が一歩、こちらに伸ばした。「朱音、待って——」 その声は、ほんの少しだけ掠れていた。 なのに、私の足は止まらなかった。 誰の視線も受け止められない。 誰のためにも、ここに立っていられない。 ガラス扉の外で、冷たい空気が肌を撫でた。 春の匂いは確かにそこにあるのに、 胸の奥はまだ、冬みたいに冷たかった。 そのまま私は、 出入りする人の流れに紛れるようにして、 背を向けた。(……来るべきじゃなかった。 私の居場所じゃないのに) そう思えば思うほど、 足取りは早く、乱れていく。(忘れた方がいい。 名前のないまま、そっと離れた方が) 自分に言い聞かせているだけだと、 どこかでわかっていた。 背中の遠くで、 晴紀が私の名を呼ぶ声が、確かに揺れた。 でも——振り返ったら崩れそうで。 私は、その声を振り切るように歩き続けた。*** 人の流れを抜けた途端、胸の奥がぐらりと揺れた。 気づけば、Dの名前を選んでいた。「……
【清晴堂、来客数回復の兆し 春の導線、職人映像がSNSで拡散中】 季節が、いつの間にか冬から春へ移っていた。 記事を閉じても、薄桜色の売り場写真が胸の奥にざわめきを残す。(……春、動き始めたんだ) 動画を開いた瞬間、心臓がかすかに跳ねた。 桜色の包み、並び順、光の当て方──(……これ、私が提案した「季節の骨格」がそのまま使われてる) けれど次の瞬間、指が止まる。(でも……あれ? ここは私の案と違う) 春菓子の背に、小さな余白の棚。 光の角度で桜影がふっと浮く。(こんなの……思いつかなかった)(……さすが、鬼塚さんだ) ページを閉じても、その棚だけが目に焼きついた。(……少しだけ。ほんの少しだけ、本物を見にいきたい) 本当に、ただそれだけのつもりだった。 でも、会社の出口を出たときには、 足が自然と清晴堂の方向へ向かっていた。(見つからないように。 ただ……企画の現場を見たいだけ)*** 翌朝。 春の空気はまだ冷たくて、 それが逆に胸を落ち着かせた。(……見に行くだけ。入らないから) 自分に言い訳しながら、 私は人の少ない開店すぐの時間に清晴堂へ向かった。 正面入口には近づかない。 観光客が流れ込む前に、建物脇へそっと回り込む。 ガラス越しに見える春の売り場。 桜色の包み、光の落ち方、職人の手元の動画モニター。(……映像で見るより、ずっと綺麗) 胸がひりつく。 自分の企画の骨格がそこにあるのに、 自分だけがこの場所の外側にいる。(……入れない。炎上したの、私なんだから) ガラスに手を触れるのも怖くて、 ただ少し離れた場所から見守るように立っていた。 そのとき──「……朱音?」 背後から、慎重に落とされた声。 振り返ると、 晴紀が買い出しの箱を抱えたまま、目を見開いていた。「なんで……外に?」「見に来ただけよ。外から……また炎上すると困るから」 そう言うと、晴紀の肩がかすかに沈んだ。「そうか」 しばらく黙っていた晴紀は、 ガラス越しの売り場を一緒に見るように立った。「朱音の企画……すごく良かったよ。新しいお客さんがたくさん来てくれてる」「……そう」「元は朱音の案だ。本当に、ありがとう」 その言葉が胸に刺さった。 そんなこと、言われたくなかったのに。 その瞬間─
玄関のドアが静かに閉まる。 外の冷たい空気が断たれ、部屋の温度が急に近くなる。 Dはコートを脱ぎながら、 部屋の中をひとつひとつ確かめるように見渡した。 そして、私の方へ向き直る。「朱音。ひとつだけ、確認したいことがあるの」 いつもの柔らかい声。 なのに、逃げ場がないくらい真っ直ぐだった。「あなたが——復讐をやめると決めたのなら」 そこで一歩近づく。 息が触れる距離。「……私と、一緒に生きてみない?」 告白より静かで、 求婚より甘くて、 選択より重い言葉だった。(……Dと、生きる?) 一瞬だけ、胸がふっと軽くなる。 気づきたくなかった感情が、静かに顔を出した。(でも——)(彼と一緒にいる私は……いつも心地いい)(もし、ずっと隣で過ごせるなら……) その想像が、 ひどく甘くて、 同時に、なぜか胸の奥を少し刺した。「復讐を手放すあなたの未来に、 私が必要だと思うの。 あなたの力になれるのは、きっと私よ」 そう言うDの目は 本気で、迷いがなくて、 私の人生そのものをまっすぐ掴みに来ていた。(……そんなの、反則でしょ) 胸が、ひどく熱くなる。 Dが一歩近づいた。 その瞬間、廊下の蛍光灯がわずかに揺れ、 白い光が彼の横顔のラインだけを切り取った。 頬の骨格の鋭さ、喉仏の影、長い睫毛の落とす影がゆっくりと揺れる。 ──美しいという言葉では足りなかった。「朱音。 ねぇ……こっちを見て?」 その声に、喉がひくりと鳴った。 殺気みたいに鋭いのに、 触れられたら壊される気がして—— でも、離れたら二度と戻れないような気もした。(だめ……今、これ以上近づいたら) ほんの一瞬、後ろへ体が引きかける。 でも、Dは追わない。 ただ待つ。 私のためらいごと受け止めるみたいに。「怖い?」 甘さと静けさが混じった声。 私は答えられなかった。 怖い—— でも、それ以上に惹かれてしまっている自分が、もっと怖かった。 Dの手がゆっくりと伸び、 けれど触れる直前でまた止まる。 その距離が、逆に私の胸を締めつけた。「……逃げたいなら、逃がしてあげるわよ」 優しい言葉なのに、 なぜか足が動かない。 呼吸すらできない。(……逃げたくない) 自分でも驚くほど静かに、 その想いだけが胸の奥に







